壮大なる苦闘 |
UPDATE 2011.10.19 |
ホールキン・ディナー・ミーティングでのスピーチ
インスティテューショナル・アドバイザーズ
ボブ・ホウイ
2011年10月11日、ロンドンにて
疑いもなく、経済政策の作り手たちは、いまだに自分たちのことを、「我々の存在なかりせば金融業界は暗く混乱に満ちた世界を照らす光の源だ」と確信しているのだろう。自分たちがいなかったら、まったくでたらめで理性の光も行き届いていないカオスになってしまうというわけだ。
自分では安定をもたらすつもりの政策が逆境によって裏目に出てしまうと、マクロエコノミストたちは決まって「原因は、思いがけない外生変数だ」と叫びたてる。もし、事態がとんでもなく悪くなったら「超ド級の外生変数のせいだ」というわけだ。
政策の作り手にとって事態がうまくいかないときには、「政策の行きすぎ」のせいだということになる。あるいは、景気後退の底あたりでは「政策が行き届かなすぎた」せいになる。
そろそろ、皆さんにもなんでもかんでも他人や、コントロールの利かない不可抗力のせいにしてしまう彼らのやり口というものがお分かりいただけただろう。彼らは、偉大なる予見能力の不足をもって、何一つ予測すべきことを予測せずにことを始めてしまってから、うまくいかないと、だれかに、あるいは何かに責任を転嫁するわけだ。
インフレには銀で対抗しようとするシロガネムシたちは、あまりにも多くの時間を供給のアンバランスを研究することに費やしてきたが、必然的に彼らの需給理論では説明しきれない事態に遭遇する。そうすると、「陰謀だ! 陰謀だ!」と騒ぎたてる。
もちろん、全体としてはシロガネムシたちより高尚な金投資家の世界でも、予想外の事態は起きるし、そのたびに例によって怪しげな容疑者たちが狩り立てられる。台風の進路や、アラビアの市場(いちば)で取り引きされたラクダの頭数が、もっともらしく思わぬ展開の理由にされたりする。
実際には、金融市場が激動するような時期には銀価格は金利スプレッドのように動くものなのだ。そして、皆さんもよくご存じのとおり、中央銀行は金利スプレッドやイールドカーブにはほとんど影響をおよぼすことができない。
歴史をたんねんに研究すれば、大きな事件が起きるときにはいつだって同じような条件が整っていたし、「外生変数」とか「政策の行きすぎ」とか「陰謀」とかの議論を正当化する根拠は皆無に近いという結論に達するはずだ。この点は、最近の金融市場における大事件でも変わらない。あまりにも珍しいので予測ができないという触れこみの「ブラック・スワン」と表現するような事態についても、ちゃんと法則性がある。
1720年の最初の金融ブーム以来、大暴落の前には必ず壮大な投機ブームが起きていたし、大暴落のあとには必ず大不況が続いていた。このパターンは完全に規則的で、2007年に頂点に達した投機ブームは6回目に当たる。
記録が示すかぎり、信用市場におけるお決まりの大変動は、その後数ヵ月のときを隔ててお決まりの大暴落をもたらしてきた。2007年の例でも、信用市場の大変動を察知した瞬間に、我々は「史上最大の列車脱線転覆事故はもう起きてしまった」と警鐘を乱打していた。この警告は、2007年の6月初旬に、テディ・バトラー‐ヘンダーソンを偲ぶミーティングがここで開催されたときの、我々のメインテーマだった。
だれだって、12〜16ヵ月のあいだ債券市場での逆イールドを背景に壮大な投機ブームが続くことなど、世界中の中央銀行は先刻ご承知のことだと思うだろう。2007年の5月は逆イールドに支えられた投機ブームが始まってから15ヵ月目だった。
バブル崩壊後の経済収縮の最初の兆候は、短期債金利が急落するのと並行して起きる株式市場の暴落として現れる。1873年の大暴落の際には、再割引率が650ベーシスポイントも下がった。
1929年には、再割引率改め、割引率と名称は変更されていたが、短期金利はやっぱり500ベーシスポイントも下がってしまった。2007年には、割引率改めフェデラルファンド・レートと名称は変更されていたが、短期金利はやっぱり500ベーシスポイントも下がってしまった。
バブル崩壊後の市場崩壊には短期債金利の暴落がつきものなのだ。それなのに、2007年に金融業界全体がきな臭くなってきたとき、政策担当者連中は何を勘違いして「連邦準備制度(Fed)が金利を下げるから、なんにも心配することはない」というようなとんちんかんなことを言っていたのだろうか。
あまりにも大勢の経済学者たちが、1929年2月にFedが金利を5%から6%に上げたのが大不況を「惹き起こした」と思いこんでいる。
大まちがいだ。この金利引き上げは、投機があまりにも盛んだったから、その投機に対抗するためにやったことだった。そして、その投機熱は米国財務省債の金利が下がり始めた1929年5月には沈静に向かっていた。
歴史回顧はこれくらいにして、「これから何が起きるのか?」に注意を集中しよう。
2009年に終わったバブル崩壊直後の暴落から抜け出す反騰局面は2011年5月にピークアウトした。我々のこの結論は、弊社が独自開発したモメンタム・ピーク・フォアキャスター(MPF)にもとづくものだが、相場の大激動を警告するMPFは商品がからんだ激動についてはとくに興味深い結論を導くことが多い。
MPFは通常3ヵ月以内に投機熱のピークと景気後退の始まりがやってくることを警告する。
この警報は、1973年の11月にも発動されたが、商品市況がピークを打ったのはその2〜3ヵ月後だったのに、事後に発表された全米経済研究所(NBER)の景気報告では、アメリカ経済が後退期に入ったのはまさに1973年11月だったと指摘していた。
次にMPFが警報を発したのは1979年11月だったが、翌年1月に金と銀はあの運命的な大暴騰後の大暴落に入った。のちに、NBERはアメリカが景気後退に入ったのは1980年1月だったと報告している。
今回MPFが警報を発したのは2011年1月だったので、我々は商品市況ブームは4月あたりまで続くだろうと思っていた。実際に4月末から5月初めの暴落で商品ブームも終わったわけだが、そのうちNBERはアメリカは2011年5月に景気後退に入ったと判定するのではないだろうか。
2011年5月も、やっぱり「運命の月」になる資格がある。
我々はあらゆるホットな動きは4月までで、そのあとには循環的な下降局面がやってくると予期していた。
最近になって、商品ばかりか、社債も世界各国の株式市場も新安値を付けている。
そのなかでも最重要市場であるニューヨーク証券取引所(NYSE)は、まだ新安値はつけていない。だが、何度も8月の安値を試しに行っては反発するという神経質な動きをくり返している。このNYSEが新安値を付けていないことと、金の対銀相対価格(G/S)が新高値に達していないという2つの事実が、10月は9月までの災難の継続というほどひどい相場にならないという予想を支えていた。今までのところは、そのとおりの展開になっている。また、米ドルが買われすぎサインを出しているという事実は、ドル安=ほとんどの投資商品高という図式によって、投資家たちの安心感を誘っている。
反発というのはダイナミックなものだが、困難からの救済を意味するわけではない。相場は全体として横ばいだが、変動性は高いという市況が1ヵ月かそこらは続くだろう。
世界中のありとあらゆる政策担当者たちが、富と政治権力を民衆から支配階級に移転する、しかも永遠に移転してしまうためのお高くとまった策謀に加担している。だが、それはソ連の支配階級の人間たちが、ベルリンの壁崩壊の直前まで当然できるはずだと思いこんでいたことなのだ。
皮肉なことに、ベルリンの壁などなかったアメリカの現職大統領であるオバマは、個人の私生活に介入するための壁をあっちこっちに建て始めたが、アメリカの大衆はもうオバマのおせっかいにうんざりしている。
金融・財政の世界は今もなお典型的なバブル崩壊後の収縮局面にある。次の深刻な流動性問題は、またしてもFedの策謀はマージン・コールによって打ち破られるものだという事実を再確認させてくれることだろう。
そろそろ、中央銀行とマージン・コールの経済史的な役割をおさらいしておくべきときだろう。
中央銀行の役割は、あらゆる企業や家計の帳簿にレバレッジを効かせすぎて、帳簿に書きこまれた整然とした数字の列を「かき乱す」ことにある。
マージン・コールの役割は、いつも乱された数字を整然としたものに戻すことにある。
なんでもかんでも「管理」しようとする勢力と大衆との壮大な闘争は、過去400年間にわたって続いてきた。「管理」派に対する反対勢力は拡大し、政治的な力も蓄え始めた。今までより自由な市場はきっと管理派を打ち破るだろうし、今度の相場下落は介入主義のナンセンスを白日のもとにさらすだろう。
壮大な経済収縮は、まだまだ続くかもしれないし、そろそろ終わってしまうかもしれない。続くという保証も、終わるという保証もない。かんじんなのは自分なりに確率を考え、それぞれの事態への対応策を練っておくことだ。